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Made in Japan

ビザが緩和され、鎖国的だった国内市場に多くの中国観光客が訪れ、Made in Japan製品を探している。
Made in Japanという名は、今もなおブランドであるようだ。
だが半世紀以上もの昔、その名が粗悪品を意味するものであった事を、一体今どのくらいの人が知っているだろうか。




90年代、日本の技術者が機械と一緒に、人件費の安い国へ拡散した。
今では流出した日本の技術と機械が、日本経済本体を揺るがしている。
このような構図はなにも新しい話ではない。
問題の関心は、当地でいわゆるMade in Japan同等以上のクオリティを出せるのか。


「モノづくり日本」とは良く聞くが、その実態は違う。
厳密に言えば、日本はサービス産業国家であり、すでに生産国家ではない。
過去の経済成長がモノづくりに起因していただけであって、華やかな過去の栄光が一人歩きをしているに近い。

だがそれ程、メイドインジャパンは特別なのだろうか?
つまり、現状品質が伴わない、Made in Somewhere else"(メイド・イン・どこか他の国)は、メイドインジャパンと似たような系譜を踏むだろうか?
さらに今後世界的に主流となっていく、画一的な生産体制とサプライチェーン・マネジメントに、原産国に付随する価値はどのように推移するのだろうか?


私たちが持つ素朴な疑問は、特にアパレル産業、縫製においての、Made in Japanの賞味期限と、未来での位置付けである。
一般に言って、原産国間の差は、持っているクオリティの違いである。
信頼度からくるイメージである。
そもそもMade in Japanが意味するイメージは何であろうか?
ハイテク?
正確性だろうか。
より直感的に捉えるのなら、効率度返しの非妥協性であろうか。
その妥協の水準ですら高いといったところ。
それが無意識の感覚として創出されてきた品質 であろうか。
技術的な面では、その道何十年といったギルド的なものとの積である。



先に触れたように、日本の大手アパレル企業は現地の工員と共にMade in Japan的品質を目指した。
だが当時、どこそこの服とはいえないが、"made in そこ" の服は酷かった。
色あせ、ホツレ、最終的に2シーズン持たない服が多かった。
それでは、現在のそれらはマシになったのか―


Nearly but not quite.
技術向上のハザマに、新たな観念が登場した。
SPAである。
要は、『簡素な服の大量生産』である。

この状況は、かつて日本車キラーとしてアメリカから送り込まれた「ネオン」と似ている。
この時期以降、日本の車の作り方は変わったと言われている。


服自体の品質は確かに向上したが、
SPAの服は、見る人が見ると、つくりは有り得ないほど「粗雑」である。
これは技術力水準の低さではなく、SPAに原因があるとした方が正しい。


ユニクロに関しては初期の方が作りが丁寧だったという人がいる。
一方で同じ国内SPAでも、例えば動きを考慮して「裁断」を工夫したり、「あて布」を一枚付けるかどうかで差がでている。
無印良品である。
これがMade in Japanの感性の系譜だという。

ではその感性は今後も残っていくのか?
感性とは、文化の持つ美意識であると言った人がいる。
一人一人の嗜好性にまで及ぶ話である。

グローバリズムとその反動であるローカリズムの狭間で、そういったものはどうなっていくのであろうか?
私たちは、国内の縫製工場へ赴いた。

ここでは国内有名ブランドや、百貨店系列の洋服をつくっている。
昔に比べて、最近ではデザイン物で小ロットのものが中心となってきたという。
海外に目を向けると、速さでは韓国に敵わないという。
現代は正確性よりも速さなのである。
また、そういった海外での生産が追いつかずに、国内の工場へ流れてくる仕事も目立ってきたというが、
数字は数割叩かれるのが実情だという。

そこで、メイドインジャパンの感性は、作業を行う個人の問題となってくる。
値引きされ、過酷な納期を強要されていく中で、感性は擦り切れていくことになる。
伝えられて行くべき感性は裸にされ、個人的問題として極めて不安定な状況に置かれている。


    



現場では、あらゆるものがネガティブな現象を伴っていた。
Made in Japanが売れない。良いものが売れない。高いモノには理由がある。消費者が本当に良いものを見る目がなくなってきた。誰も本物の品質を知らない―

だが話の本質として忘れてならないのは、「消費者はそこにいますか?」という命題である。

世の中の経済の動き、技術革新、競争条件やライフスタイルの変化によって、ニーズは刻々と変化してきているという現実を直視しなければならないのだ。
日本市場は、これまで同質的で不変的な消費者のいる場であると信じられていた。
消費者は価格の上で品質と便利さの代価を払ってきたが、近年は安価なものを求めるようになった。 何故か― 

(以下マッキンゼー社作成のレポートより、拝借)

The McKinsey Quarterly report attributes three factors: economic down turn, domestic regulatory action and a generational gap in mindsets.

While value-seeking and bulk spending habits both have implications for brands, I see the shift in the 20-something Japanese shopping mindset as having the potential to change the landscape of the country's retail market on a much more permanent level. Considering this tidal change, marketers will be challenged to evolve with a new set of consumer needs, expectations and behaviors. This younger generation has continued to rebel from the tradition of "salaryman" corporate life and questioned the importance previous generations placed on material possessions. Where brands once were able to rely solely on a name to drive demand and purchase, marketers for the first time are now struggling to find news ways to deliver relevance ? to both attitudes and behaviors.

(略)

One thing is certain: the world's second-largest consumer market is changing as Japanese consumers increasingly resemble their Western peers. For Western companies that have long regarded selling in Japan as not only different but also difficult, this may be welcome news indeed.





複合的な理由だろうが、要するに不景気と世代間格差の狭間で、若い世代がモノを所有することに多くの意味を持たなくなり、そういった変化が「恒常化」する恐れがあること。
割愛させて頂いたが、そのような市場では、欧米のような価格訴求的で画一的な商品を扱うマーケティングが、功を奏してきている― ということである。

つまりここにあるのはグローバリズムにおける平準化であり、これまでにあった意味的概念の変質でもある。
この場合、過去の知恵・知識のある重要な部分が一切通用しなくなる。
一方で歴史を見てみると、およそ一世紀前、この種の工場が危機に瀕していたのはイギリスのマンチェスターであった。
世界の繊維産業をリードしたこの地はその後、日本にシフトしたのだ。

当時、マンチェスター紡績協会発行の調査報告書「Cotton industry of Japan & China」というマンチェスター紡績協会発行の調査報告書の結論には、日本の競争力の理由は、労働力搾取やダンピングではなく、技術力にあると記されているという。
その後マンチェスターは長い没落に瀕するが、現在は主に学園都市として再生、繊維産業の名残としていくつかのファッション団体も散見されている。
当時は合理化を伴った技術の高さが理由になった。
そして現代、その理由は何だろうか。


答えは、これまでの話の流れにある。



<参考資料>
【製造品出荷額はピーク時の3分の1程度まで減少】
【国内総生産・就業者とも、経済全体に占める割合は低下の一途】


世界の主流マニュファクチュアリングと比べると、国内生産の原価率とは倍以上の開きがある。
グローバリズムとローカリズムの狭間で、世界的に主流となっている生産体制とサプライチェーン・マネジメントは、国内のこの種の規模の産業の蚊帳の外で進行している。
価格訴求的で画一的な商品を支持する世界的な市場が膨張する限り、原産国に付帯する価値は今ほど重要ではなくなってくる。
もちろんそういった反動で原産国に特化したものは生まれているが、当事者の多くは世界的な震災が落ち着くのを身をかがめて待つようなものだ。
事実、日本のこの種の工場の閉鎖がどこまで続き、何を持って止まるのかが窺い知れない。


一般に、Made in どこそこのクオリティは、「市場に必要とされている水準」まで行く。
そこでMade in Japanのもつ質の高さは、ある意味余剰となる場合がある。
いわゆるオーバースペックと表現できようか。
そしてそれが、そのステータスを伴っている限りにおいて、一部の必要とされる市場に供給され続けるだろう。

個人に託された"感性"は、生き延びる環境でのみ生き続ける。
グローバリズムは適所生存として、国際分業を通じ、ある均衡点を目指して絶えず変化している。
原産国の概念も変わってくる側面もあるが、このことはかえって個を際立たせる結果ともなる。
すなわちMade in Japanは、クオリティの平均値の高さとしてのネームバリューよりは、とどのつまり、少数な一個性として残っていくということになろうか。
意味するものは、相対的な品質の高さではなく、匠や職人の仕事を指すものである。
例えばMade in ○○(その地方の名前)として、地場産業的なもののように、狭義的にブランディングされて生き残っていくのだろうか。
淘汰はここまで進む。

一方で、世界市場における品質の水準が、Made in Japanの水準、もしくはそれ以上まで上がってくる事も十分考えられるが、
その時には大概違う感性が必要とされている場合が多い。
さらに今後は外的な要因として、最近騒がしいTPPのような関税撤廃の流れとセットで、何かしらの産業保護政策が出てくることだろう。
ここまで来て残るのが、次世代の『Made in Japan』である。


もっとも唯一の望みは、未来は概してこのような一次元的な展開ではなく、様々な要素が入り乱れてくることにある。
明らかに国内産業は衰退していくが、小さな活路はいくつか生まれてくるに違いない。
ここでの展望は2つ。
今後、日本のこの種(アパレルの国内生産)の産業は、確実に衰退していくであろうと言うこと。
Made in Japanの市場が生き延びたとしても分母は小さく、残る工場はある特色を持ってのみ残るだろうということ。

次に、巡るべく循環が途絶えていること。
それは、供給とニーズの断絶である。
例えば今最高の服を作るという点においては、まだMade in Japanが面白い。
そういったものを必要としている市場が世界にないわけではないし、今後生まれてこないわけではない。
したがって、これらをつなぐ仕組みが早急に必要である。
もちろん需要があってから動くのでは遅い。
インフラが整ってから発展していったビジネスは無いのだ。
必要なのは、仕組みである。


だが大概、このような数字の見えない話は煙たがられる傾向がある。
一方で政府は何をして良いか分からず、億単位の補助金を垂れ流し続けている。
アクションが10年遅い。
プロセッシングがシステムとして破壊的に機能不全である。
明らかに産業は衰退していくが、衰退していったその先のビジョンが国にもまだない。
ジャパンファッション
大竹
協力・参照
http://www.basil.co.jp/(JP)
http://www.kuriyama-sewing.co.jp/pc/(JP)
http://www.marey.jp/english.html

http://www.meti.go.jp/press/20100426003/20100426003-4.pdf
http://www.mckinseyquarterly.com/The_new_Japanese_consumer_2548
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